Oct 06, 2009
いつもサッカーのユニホームを着ている人
私が幼い時の話ですが、小学校に通っていた時の友人は常にサッカーのユニホームを着ている人がいました。それも冬もサッカーのユニフォームを着ていて、びっくりしました。しかも、一種類のサッカーユニフォームではなく、他のチームのサッカーユニフォームをたくさん持っていて、それほどサッカーに興味があると認識させていただきました。スポーツクラブのほとんどの施設は会員制で、通おしようとすると経費もかかる。運動自体はクラブに行かなくても外ジョギングすると十分な運動になるので、わざわざお金を出して運動しなくても良いものとする意見もある。しかし、運動を習慣化するには、どの程度の運動をすべきだと思う動機が必要である。元の運動をする意識が低い人は、自宅よりジムで運動するのがお金を出しているの刺激が運動しやすいのではないか。
東日本大震災の津波で倒れた岩手県陸前高田市の松から作ったまきを京都の「五山送り火」で燃やす計画が中止された問題で、大文字保存会は15日までに、まきに書き込まれた遺族らのメッセージを別の護摩(ごま)木に書き写す作業を終えた=写真。16日の「大文字」送り火で燃やされる。
護摩木には「今までありがとう。また会いたいです。会いたいです」「パパへ いつまでも3人一緒だよ」などの言葉がつづられている。
メッセージが書かれたまきは、使用中止が決まった後の今月8日、陸前高田で迎え火として全て燃やされた。迎え火に立ち会った同保存会の松原公太郎理事長が写真に残し、保存会メンバーとともに書き写した。
松原理事長は「しっかりと精霊を送りたい。この送り火だけで終わらず、一生をかけて被災地の方とかかわりたい」と話した。【古屋敷尚子】
8月16日朝刊
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第5回近畿クラブ野球交流大会(日本野球連盟近畿地区連盟主催、毎日新聞社後援)の準決勝と決勝が14日、奈良県橿原市の佐藤薬品スタジアムであった。決勝は八尾ベースボールクラブがタイブレークの末、4−3で京都ジャスティスベースボールクラブを破り、初優勝した。
最高殊勲選手賞に上出健太選手(八尾ベースボールクラブ)、最優秀投手賞に斎藤崇選手(同)、首位打者賞に金山佳樹選手(同)、敢闘賞に渡辺靖彬選手(京都ジャスティスベースボールクラブ)がそれぞれ選ばれた。【高瀬浩平】
8月16日朝刊
平和の尊さを伝えようと終戦記念日の15日、金閣寺(京都市北区)と銀閣寺(左京区)に植えられた「被爆アオギリ」の苗木。
爆心地から約1・3キロの地点で被爆し生き残ったアオギリは、広島復興のシンボルとなり、その種から育った2世や3世の苗木は世界中で植樹されている。被爆者でアオギリの話を語り継いできた沼田鈴子さんは先月、87歳で亡くなった。
金閣、銀閣両寺の有馬頼底(らいてい)住職に協力依頼し今回の植樹を実現させた、大津市在住の住職で市民団体「被爆アオギリ里子運動」の関西事務所代表の左藤滋光(じこう)さんは「沼田さんの平和を願う気持ちを受け止め、継承していきたい」と話していた。
金閣寺では当面、シカの食害などを受けない場所で育てるため拝観コースからは見えない。銀閣寺は拝観者も見ることができる庭で育てる。【田辺佑介】
8月16日朝刊
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◇鳥取「平和塔」の原点に−−京大生と共に展示準備
JR鳥取駅の北にある雁金(かりがね)山。山頂に高さ16・5メートルの白い塔がそびえ立つ。1943年の鳥取地震の被害者や戦没者らの霊を慰めようと56年に建設され「平和塔」と名付けられた。設計者で建築家の蓮佛(れんぶつ)亨さん(81)=宇治市=は京都工芸繊維大学出身。京都大以外の学生で「綜合(そうごう)原爆展」(1951年7月)のパネル作りに取り組んだ一人だった。
鳥取県出身で4人兄弟の3番目の蓮佛さんが建築の道に進む素地となったのは、農村風景を描いていた九つ上の長兄を見て絵画に親しんだことだった。兄2人は満州(現・中国東北部)で関東軍に入隊した。兄らが鳥取の弟にあてて月1回送ったはがきは、戦況には触れず極寒での生活を書き記していた。「兄弟とは不思議なもので書かなくても兄たちの気持ちが伝わってきて、それがかえってつらかった」。反戦意識の根は、そのころに芽生えた。
15歳で終戦を迎え、49年、京都工芸繊維大学に入学。生活は楽でなく家庭教師のアルバイトなどに励む一方、京都大出身の教官と共に京都の建築家集団を作ろうと活動していた。その教官から、綜合原爆展の計画を聞いた。「あの特殊爆弾がどんなものだったかを知った。えらい物が落ちたと悟った」
パネル製作の人手が必要だと知り、約30人の級友に呼び掛けると全員が協力した。アルバイト代が支払われたが、その原資は原爆展に協力する教官からの寄付だったという。
小さなメモ書きのような紙に京都大学の学生らが記した字と絵は抽象的だったと記憶している。その紙を見て模造紙に構成し直し、水彩絵の具や墨で描く。90センチ四方のパネルの木枠は大工に発注した。「何枚描いたかは覚えていないが、いくらでも描けるくらいだった」。製図室は学生の熱気に満ちていた。
◇
平和塔の設計は大学卒業後、鳥取市職員として務めた5年の間のことだった。学生時代を過ごした京都で何度も眺めた五重塔をイメージした。塔の写真を見ながら蓮佛さんは語る。「僕の人生や考え方が反戦・平和へとしっかり向いたのは学生の時、あの原爆展があったから。愛知の離婚弁護士の流れ80歳を過ぎた今だからこそ、そう感じる」【成田有佳】=つづく
8月16日朝刊
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